八重山石垣の歴史こぼれ話
明治大正編


=日本海海戦秘話=宮古の海人久松五勇士

日露戦争と八重山、宮古。一体どんな関わりがあったのか。なんの脈略も取り合わせもないようだが、当時の宮古島の松原部落と久貝部落の海人(ウミンチュ)5人がとてつもない快挙を成し遂げた話が存在したのである。
明治38年5月、連合艦隊はバルチック艦隊を迎え撃つべく対馬に近い海域を警戒していた。一方、太平洋を迂回し、津軽海峡か宗谷海峡を通って来るかもしれないという懸念もあり、北海道方面へ移動する計画も浮上していた。事前に敵艦隊の航路が判れば当然戦いは有利になる。ゆえに何としてもキャッチしたい情報であった。しかし、哨戒艦からの情報は、5月14日敵艦隊が台湾とフィリピンの間のバシー海峡を通過したということを入電して以来不通になっている。

そんな中、5月25日午前バルチック艦隊らしきものと遭遇したとの情報が宮古島の支庁に寄せられた。遭遇したのは粟国島出身の奥浜牛(ウシ)で、宮古へ日用雑貨の類を運ぶ途中慶良間と宮古の中間あたりで40隻位の大船団とすれ違ったとのことであった。中には煙突が黄色に塗られた船もあったということで、事情を聴取した島司の橋口軍六はバルチック艦隊に間違いないものと判断し、急ぎ敵艦発見した旨の電信を発すべしと決断した。しかし、宮古には電信設備がないため石垣島へ人を派遣することにしたのである。誰を派遣すべきか決めかねて悶々としている中、偶然に訪ねてきた松原部落の垣花善に何か感じるものガあり、事の詳細を話した。敵艦隊を発見したことを通報するのは国民としての義務である。もしこの情報により日本が勝てば宮古島の栄誉である。しかし、逆にこの情報を大本営に報告しなければ国賊になるかもしれず、このことは何としても避けなければ宮古の島民に申し訳がたたないなどと必死に説いた。

垣花は一言「行かねばなりますまい」といって引き受けてくれた。そして自分の弟の清、従兄弟の與那覇蒲とその弟與那覇松、更には久貝部落の與那覇蒲(同姓同名)にも事情を話し石垣行きに加わってもらった。信頼できる人からの依頼であれば多くは聞く必要ない。これが宮古海人(ウミンチュ)の豪胆な気性なのだろう。垣花を含む5人の海人(ウミンチュ)は5月26日早朝、島司から託された電信文の草稿とわずかの食糧と水を積み込んで、全長わずか6m少々幅1m足らずのサバニに乗り込み出航した。サバニという舟は杉の芯をくりぬき、全体に鮫の油を塗りつけ水止めを施した沖縄独特の漁をするための舟である。この頃のサバニはエンジンはなく専らエークといわれる櫂を使って漕いだり、風のいい時は帆を架けて帆走することもあった。こんな小さくて粗末な舟で石垣までの128kmの荒海を漕破しようというから無謀、蛮行というべきか、はたまた勇猛果敢というか驚愕するばかりであった。
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